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「木曽義昌(きそよしまさ)」と「東漸寺(とうぜんじ)」(旭市)
 本日ご紹介するのは、となりまち「旭市」ゆかりの人物「木曽義昌(きそよしまさ)」公と「東漸寺(とうぜんじ)」です。

 「木曽義昌」公は、天文9年(1540年)、「木曾福島城主」「木曾義康」の嫡子(長男)「宗太郎」として誕生し、「信濃国木曾谷」を領有していた「朝日将軍」として「勇名」を馳せた「木曽義仲」の子孫となる「戦国武将」です。

 「木曾氏」は、豊富な「美林」と「交通の要衝」を押さえていたものの、「山国」のため、「水田」と「領民」が少なく周辺「隣国」はいずれも「強国」で、「義昌」公の「生涯」は「隣国」との「駆け引き」と「戦い」に明け暮れたたいへんな日々だったといわれています。
 「木曽家」の「主(あるじ)」として、「武田信玄」・「武田勝頼」・「織田信長」・「徳川家康」、後に「太政大臣」となり、「豊臣」の「姓」を称する「豊臣秀吉」などの間で「勢力」をつけました。

 その後の天正18年(1590年)「豊臣秀吉」の「北条氏征服」のための「小田原城攻め」に、「息子」の「義利」を代理として参加させたことで「豊臣秀吉」から「疑惑の目」で見られることとなり、同年8月に「豊臣秀吉」に命じられ、「山国」である「信濃国木曾谷」から「潮騒の地」である「下総蘆戸城」(旭市網戸)へ「一万石」で移封されこの地方を治めることになりました。
 (この時「木曽義昌」公は、「木曾谷」の「領地」は失いました。)

 その5年後の文録4年(1595年)3月17日に、「病」のため56歳で「木曾の地」に帰ることなく波乱に富んだ「生涯」を「旭の地」で終えました。
 (その後、「木曾氏」はその子、「木曾義利」の時に廃絶されてしまったそうです。)
 「木曽義昌」公の「遺体」は、「城」の北西方の「椿湖」に水葬されたそうです。

 わずか5年の在世でしたが、「木曽義昌」公の「網戸」での「徳政」に満ちた「まちづくり」は、400年以上経た現在でも「旭市内」で語り継がれているそうです。
 そして「水葬」された「椿湖」は、後に干拓されてしまいましたが、「墓」のある一帯であるこの地は、「木曽義昌公史跡公園」となり「国道」の喧騒(けんそう)の中、「憩いの場」になっており、「木曽義昌公史跡公園」横には、「名所旧跡」として「木曽義昌」公の「石碑」、「銅像」も建立されています。

 「石碑」には、次のように記されています。

 (原文まま)
 木曽左馬頭兼伊豫守源義昌公は朝日将軍木曽義仲公19代の子孫にして奥方は武田信玄の息女万里姫なり、天正18年8月義昌公はその子義利と共に徳川氏の武将として遠く木曽福島から下総網戸城に移り来り1万石を領せらる。
 木曽氏の宿将山村甚兵衛、千村平右衛門、馬場半左衛門等の屋敷は城の屋敷は城の東南西南に配置され、城下を画して街づくりを行い、ために網戸村繁栄す。
 木曽義昌公は木曽家累代の菩提所として城の一隅に東漸寺を建立し木曽より随身の悦道和尚によって開基せらる。
 義昌公は戦国の武将なれども頗る奉佛祟祖の念篤く領民に善政に施せり領民その徳を偲び公を当地興隆の祖と仰ぎ参拝の絶ゆる事なし。
 文禄4年3月17日義昌公薨じ遺言に依り城の亜北の江中に葬り奉る。
 其砌は漫々たる椿湖の入江なりしが元禄年間椿湖開発され御水葬の辺りも干潟と成りし故御墓を改修し今に至る。
 とあります。

 「東漸寺」は、「旭市」にある「真言宗智山派」の「寺院」で「殿玉山西徳院」と号し、「御本尊」は「愛染明王」です。
 「東漸寺」は永禄2年(1593年)「下総国網戸」1万石の「領主」「木曽義昌」公の開基、「悦堂」の開山により創建された「寺」です。

 「東漸寺」は、「木曽義昌」公が天正18年(1590年)に「下総網戸城」に入場した後、城内の一部に「木曽家累代」の「菩提所」として建立された「寺」で、「木曽義昌」と夫人「万里姫」の「供養塔」があるそうです。
 「東漸寺」では、静かなたたずまいの中に、中世武将の悲劇を物語っているようです。

 また「桜」の好きな「木曽義昌」公のために「桜」が植えられ「桜」の「名所」として知られています。
 「木曽義昌」公の「墓」の前や周りには「桜並木」の「参道」ができていて、4月には、多くの「参拝者」や「花見客」で賑わいます。

 2月20日のブログ「旭の花」「椿(つばき)」の備考でも紹介しましたが、「旭市」の「市名」の「旭」という「名前」の「由来」は、「木曽義昌」公(「朝日将軍」・「木曽義仲」の19代子孫)からきているそうです。

 時代に翻弄されながらも、波乱の生涯を遂げた「木曽義昌」公。
 僅か5年の在世でありましたが、「桜木」を愛し、「城下町」をつくり、「新田開発」などに力を尽くした「旭」にゆかりのある「武将」「木曽義昌」公を偲ぶ「東漸寺」に訪れてみませんか?

 「東漸寺」詳細

 所在地  旭市イ2337

 問合わせ 東漸寺 0479-62-2564

 備考
 「下総網戸城」の「居城」跡に建つ「東漸寺」では、「木曽義昌」公の「命日」である3月17日に毎年供養を行っています。
 また「東漸寺」には、「旭市」の「指定文化財」として「懸仏」、「木曽義昌公史跡」が指定されています。

| http://www.inubou.co.jp/blog/index.php?e=967 |
| 地域情報::旭 | 08:33 AM |

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