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「相撲祭(スモウサイ)」(鹿嶋市)
 本日ご案内するのは、近隣市「鹿嶋市」「鹿島神宮」「本殿」前「特設土俵」で11月3日(祝・火)に開催されます「相撲祭(スモウサイ)」です。

 「常陸国一宮」「鹿島神宮」(2010年11月8日・9日・10日のブログ参照)は、「茨城県」「鹿嶋市」に鎮座する「神社」で、「全国」に約600社ある「鹿島神社」の「総本社」です。
 「鹿島神宮」は、「千葉県」「香取神宮」(2010年11月5日・6日のブログ参照)、「茨城県」「神栖市」の「息栖神社(イキスジンジャ)」(2010年11月7日のブログ参照)と合わせて「東国三社」(2010年10月23日のブログ参照)と呼ばれ、江戸時代から「東国三社めぐり」として人気があったそうで、「初詣」には、「全国」から60万人以上が参拝し、「初詣」の「参拝者数」では「茨城県」2位を誇ります。

 「鹿島神宮」は、「茨城県」「南東部」、「北浦」(2011年12月6日のブログ参照)と「鹿島灘(カシマナダ)」(2012年6月16日のブログ参照)に挟まれた「鹿島台地」上に鎮座し、「鹿島神宮」は、「伊勢神宮」・「香取神宮」とともに、明治維新前に「神宮」の名称を使用していた三社のうちの一社です。
 「鹿島神宮」の「御祭神」「武甕槌大神(タケミカヅチノオオカミ)」(建御雷神)で、「鹿島神」という一般名称でも知られており、「古事記」では、「伊弉諾尊(イザナギノミコト)」が「軻遇突智(カグツチ)」の「首」を切り落とした際、「剣」についた「血」が「岩」に飛び散って生まれた「三神」のうちの「一柱」とされています。
 「武甕槌大神」は、「香取神宮」の「御祭神」「経津主大神(フツヌシノオオカミ)」とともに、「天孫降臨」に先立ち「国譲り」の「交渉」をしたといわれている「神様」で、「武甕槌大神」は、「武の神」として古くから「皇室」や「藤原氏」の「崇敬」を受け、さらに鎌倉時代以降は「武家政権」の「信仰」も得て、「社殿」・「楼門」・「宝物類」の「奉納」や「所領寄進」が繰り返されてきました。

 「鹿島神宮」の「創建」ですが、2674年前の「初代」・「神武天皇」「御即位」の年にあたり、「神武天皇」は、「東征」の途上における「大神」の「布津御霊劔(フツノミタマノツルギ)」による「守護」に感謝され、「鹿島の地」に「大神」を勅祭されたそうです。
 これに先立つ神代の昔、「武甕槌大神」は「天照大御神(アマテラスオオミカミ)」の「名」を受け、「葦原中国」といわれた「我が国」の「国譲り」から「国造り」まで、建国に大いにその「御神威」を発揮されました。
 「鹿島神宮」は、その「御威徳」から「武の神」として崇められ、日出づる「東方」に坐します「鹿島立ち」の「御神徳」によって、「事始め」、「起業」、「開運」、「旅行交通安全の神」、「常陸帯」(2012年1月13日・2011年10月16日のブログ参照)の「故事」によって「安産」、「縁結び」の「神」を仰がれています。
 「鹿島神宮」は、古くから「朝廷」から「蝦夷(エゾ)」に対する「平定神」として、また「藤原氏」から「氏神」として崇敬され、その「神威」は中世の「武家の世」に移って以後も続き、「歴代」の「武家政権」からは「武神」として崇敬され、現代も「鹿島神宮」は「武道」で篤く信仰されています。

 「鹿島神宮」、「香取神宮」とも古来より「軍神」としての「性格」が強く、「武術」の「道場」には「鹿島大明神」、「香取大明神」と書かれた「2軸の掛軸」が対になって掲げられることが多く、そのため「鹿島神宮」周辺は「武芸」が盛んとなり、「鹿嶋」は、戦国時代の「剣豪」、「兵法家」で、「父祖伝来」の「鹿島古流」(鹿島中古流)に加え、「天真正伝香取神道流」を修め、「鹿島新当流」を開いた「剣聖」「塚原卜伝(ツカハラボクデン)」(2011年11月29日のブログ参照)の「故郷」として知られています。
 「鹿島神宮」「例祭」では、「鹿島神宮」に由来のある「直心影流剣術」による「奉納演舞」が行われる他、「古武道団体」が「演武大会」(2014年10月25日・2013年10月5日のブログ参照)を開催することもあります。

 「鹿島神宮」「文化財」ですが、「布津御霊劔(フツノミタマノツルギ)」(布都御魂剣)と称される「長大」な「直刀」が「国宝」に指定されているほか、「鹿島神宮」「境内」は「国」の「史跡」に指定され、「本殿」・「仮殿(カリドノ)」・「楼門」など「社殿」7棟が、「国」の「重要文化財」に指定されており、そのほか「鹿島神宮」は、「鹿」を「神使」とすることでも知られています。
 「鹿島神宮」の「境内地」ですが、「東京ドーム」15個分(約70ha)に及ぶ「大きさ」で、「鹿島神宮」の鎮座する地は「三笠山(ミカサヤマ)」と称され、この「境内」は「日本」の「歴史上」、「重要な遺跡」であるとして、「国の史跡」に指定されています。
 (摂社坂戸神社境内、摂社沼尾神社境内、鹿島郡家跡も包括)
 「鹿島神宮」「境内」(70ha)のうち約40ha(ヘクタール)は鬱蒼(ウッソウ)とした「樹叢」で、「鹿島神宮樹叢」として「茨城県指定天然記念物」に指定されており、「樹叢」には約800種の「植物」が生育しており、「鹿島神宮」の長い「歴史」を象徴するように「巨木」が多く、「茨城県内」では随一の「常緑照葉樹林」になっています。
 その他「鹿島神宮」「境内」には、透き通る「湧水」で「禊(ミソギ)」も行われる「御手洗池」や、「鹿園」など、多くの「見どころ」があります。
 ちなみに「布津御霊劔(フツノミタマノツルギ)」(布都御魂剣)ですが、「茨城県」「唯一」の「国宝」である「直刀」で、「鹿島神宮」「宝物館」にて、所蔵、展示されています。

 「鹿島神宮」「本殿」は、「三間社流造」、「向拝一間」で「檜皮葺」、「漆塗り」で「柱頭」・「組物」等に「極彩色」が施されています。
 「鹿島神宮」「本殿」ですが、元和5年(1619年)の造営までは、現在の「奥宮」の「社殿」として使用されていたそうです。
 「鹿島神宮」「本殿」の背後には「杉の巨木」の「神木」が立っており、「樹高」43m・「根回り」12mで「樹齢」約1000年といわれ、さらに後方、「玉垣」を介した位置には「鏡石(カガミイシ)」と呼ばれる「直径」80cmほどの「石」があり、「神宮創祀の地」とも伝えられています。

 「鹿島神宮」「楼門」は、寛永11年(1634年)、「水戸徳川初代藩主」「徳川頼房」公が奉納された「楼門」で、「高さ」約13m、「日本三大楼門」のひとつとして知られています。
 「鹿嶋社楼門再興次第記」によれば、「三代将軍」「徳川家光」公の「病気平癒」を「徳川頼房」公が「大宮司」(神宮の最高責任者)「則広」氏に依頼し、「徳川家光」公が快方に向かった為に奉納されたとあり、「浅草」の「水戸藩下屋敷」で130余人の「大工」が切組み、「船筏」で運んで組み立てたそうです。
 「鹿島神宮」「楼門」ですが、昭和15年(1940年)の「大修理」の際「丹塗り」とし、昭和40年代に「檜皮葺」の「屋根」を「銅板葺」にしたそうです。
 「鹿島神宮」「楼門」は、「境内」「鹿島神宮の森」の「縁」の中にひときわ「朱色」が鮮やかな「楼門」で、「楼門」の「扁額」は「東郷平八郎」「元帥」の「直筆」によるものだそうです。

 「御手洗池」は、「神宮」「境内」の「東方」に位置する「神池」で、「潔斎(禊)の地」、古くは「西」の「一の鳥居」がある「大船津」から「舟」で「この地」まで進み、「潔斎」をしてから「神宮」に参拝したと考えられており、「御手洗」の「池名」もそれに由来するとされています。
 「御手洗池」には、「南崖」からの「湧水」が流れ込み、「水深」は1mほどで、非常に澄んでおり、「御手洗池」に「大人」が入ってもその「水深」は「乳」を越えないといわれ、「鹿島七不思議」のひとつに数えられています。

 「鹿島神宮」では80以上もの「年中行事」の中では「祭頭祭」(2015年3月8日・2014年3月5日・2013年3月6日・2012年3月2日・2011年3月6日のブログ参照)、「神幸祭」(2013年3月6日・2012年8月26日のブログ参照)、また12年に一度「午年」ごとに行われる「式年大祭御船祭」(2014年8月31日のブログ参照)が特に有名で、2014年9月1日(月)には、「3日間」に渡って「御船祭」が催行されています。
 (「式年大祭御船祭」前日8月31日(日)午後には、「御座船清祓式」(2014年8月29日のブログ参照)が執り行われました。)

 「相撲」ですが、「力業(チカラワザ)」による「格闘技」の「一種」で、「角力」とも書きます。
 「相撲」ですが、「素手」、「まわし」一枚の「姿」で、「土俵」上に相対した「競技者」が「相手」と倒し合い、「土俵」外に出し合って「勝敗」を競う「競技」となっています。

 「古事記」では、「武甕槌大神(タケミカヅチノオオカミ)」と、「武御名方(タケミナカタ)神」の「力比べ」により「国譲り」が行われたとの「記述」があり、「日本書紀」なみえる「垂仁天皇」の「代」の「当麻蹴速(タイマノケハヤ)」と、「野見宿禰(ノミノスクネ)」が対戦したという「伝説」は、「相撲」の「初め」として「有名」です。

 「相撲」は、「民俗学」上、すでに弥生時代の「稲作文化」をもつ「農民」の間に、「五穀豊穣」の「吉凶」を「神」に占う「農耕儀礼」として「相撲」が広く行われていたことが明らかにされており、古くは「武術」・「農耕儀礼」・「神事」として行われていました。
 このように「相撲」は、ただ単に「力比べ」の「スポーツ」や、「娯楽」ではなく、「本質的」には、「農業生産」の「吉凶」を占い、「神々」の「思し召し(オボシメシ)」(神意)を伺う「神事」として普及し、発展してきたそうです。
 「相撲」が史実として初めて記録されたのは、642年(硬極天皇1)「古代朝鮮国」の「百済(クダラ)」の「使者」をもてなすために、「宮廷」の「健児(コンデイ)」、「衛士(エジ)」に「相撲」をとらせたという記述で、「日本書紀」にみられるそうです。
 726年(神亀3年)、この年は「雨」が降らず「日照り」のため、「農民」が「凶作」に苦しんだそうです。
 「聖武天皇(ショウムテンノウ)」は、「伊勢大廟(イセタイビョウ)」のほか21社に「勅使」を派遣して「神の加護」を祈ったところ、その翌年は「全国的」に「豊作」をみたので、「お礼」として「各社」の「神前」で「相撲」をとらせて奉納したことが、「公式」の「神事相撲」の「始まり」と記されており、「農村」における「秋祭」の「奉納相撲」も、その名残(ナゴリ)の「伝承」とされています。

 その後、「相撲」は、平安時代には「宮中の年中行事」として「相撲の節(スマイノセチ)」が行われ、室町時代に至って、「職業力士」が生まれ、近世になり「土俵」や、「決まり手」・「禁じ手」が定められ、江戸期からは「興行」も盛んになったそうです。
 「相撲」ですが、一般に、「日本の国技」とされています。

 「鹿島神宮」では、11月3日(祝・火)に「秋の恒例行事」「相撲祭」が行われます。
 「相撲祭」は、「五穀豊穣」を祝い、「鹿嶋市」「宮中地区」の「各地区」が毎年持ち回りで奉仕している「お祭り」で、「相撲祭」では、「鹿島神宮」「本殿」前「特設土俵」上で、「所役」(行司)により「故事来歴」の「巻物」を広げて「相撲古事記」が奉読され、「鹿島の神」と「相撲のおこり」が「観衆」に述べられ、「土俵」の上では「化粧廻(ケショウマワシ)」を締めた「童男」(10歳以上の男児)が、「相撲の取り組み」のまねて対戦、生後3ヶ月から9歳までの「男児」約40人が出場、「勝負」はいずれも「引き分け」とするのが「習わし」となっている和(ナゴ)やかな「行事」です。
 「相撲祭」ですが、「鹿島神宮」「御祭神」「武甕槌大神」が「国譲り」「交渉」の際、「神々」と力比べしたとされる「故事」に由来し行われています。
 (武甕槌大神が出雲で武御名方命(タケミナカタノミコト)と力競べをしたという古事にちなんで相撲の所作を行っています。)
 「相撲祭」終了後には、「次年度当番区」へ「引き継ぎ」が行われるそうです。

 「武の神」「武甕槌大神」を祀る「鹿島神宮」「本殿」前「特設土俵」で開催される「秋の恒例行事」「相撲祭」。
 この機会に「鹿嶋市」に訪れてみてはいかがでしょうか?

 「相撲祭」詳細

 開催日時 11月3日(祝・火) 10時〜

 開催会場 鹿島神宮本殿前特設土俵 茨城県鹿嶋市宮中2306-1

 問合わせ 鹿島神宮社務所 0299-82-1209

 備考
 「鹿島神宮」では、11月3日(祝・火)9時00分より「明治祭」が行われます。
 「明治祭」は、「明治天皇の誕生日」に際し、「我が国」を「近代国家」に導かれたその「大業」を称え、「皇室の弥栄」と「国」の「益々の発展」、「永遠の平和」を祈る「お祭り」(中祭)です。

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